2012-01-16

ヌーヴェル・ヴァーグはどこからやってきたのか

そもそもヌーヴェル・ヴァーグについて私が知っていることいったら監督名とその映画、出演している俳優ぐらいしかわからないので偉そうな口は叩けないのであるが、ヌーヴェル・ヴァーグはどこからやってきたのか。ヌーヴェル・ヴァーグって人の名前?それとも美味しいパンの名前?偉い人?なにかの機械みたいなもの?そもそもヌーヴェル・ヴァーグって何だ?


ヌーヴェル・ヴァーグの「文化的基盤」をつくったのは「唯一にして真の映画評論家」アンドレ・バザンを中核とする「カイエ・デュ・シネマ」誌にほかならない。—ゴダール

(オーソン・ウェルズの『市民ケーン』に対して)これから映画をつくろうと考えていた人間にこれほどやる気を起こさせた映画はなかった...あの無謀な若さで...映画の規則を踏みにじり、その視覚的限界を踏み越え、目を見はらせる衝撃的なあの手この手...映画的奇跡」–トリュフォー








「カイエ・デュ・シネマ」の創刊は1951年であった。パリのシャンゼリゼ大通り146番地に編集部を置き、未来の「新しい映画」を担う若者たちが自由に出入りして映画を論じ合う溜まり場になったのは1953年の冬ごろ、グループはまだ若く貧しく、そこには二十歳のトリュフォーやゴダール、リヴェット、シャブロル、さらにはエリック・ロメールなどがいて批評を武器に、フランス映画界に殴り込みをかけようとしていた。のちにヌーヴェル・ヴァーグと名付けられる若者たちの姿である。


「カイエ・デュ・シネマ」=ヌーヴェル・ヴァーグの精神は「作家主義」である。これはオーソン・ウェルズの擁護と賛美にはじまった。1941年、オーソン・ウェルズは『市民ケーン』という映画を世に送り出す。(この映画は今観ると技術的な真新しさはまるでわからない。なぜならこのときオーソン・ウェルズがみせた真新しい撮影技法というのはもはや映画の撮影技法としては主流になっているからである)若干25歳でハリウッドにのりこんで新人監督としては異例の条件で、撮影から編集に至るすべての権限を自由に保証されて作った伝説的な映画である。ハリウッドという巨大な撮影所システムと企業形態のなかで助監督の経験もなく、しかも25歳の若さで『市民ケーン』を撮ることに成功したオーソン・ウェルズは、まさにヌーヴェル・ヴァーグの理想であり、極端にいえばヌーヴェル・ヴァーグとはオーソン・ウェルズに憧れた若者の集まりでもあった。


アメリカ映画を擁護することは一種のアヴァンギャルドだったのだとエリック・ロメールは語る。十代のトリュフォーも、パリ解放後にアメリカ映画を観れるようになったときの興奮をこのように表現している。「くたばれ!ピエール・フレネー、ジャン・マレー、エドヴィージュ・フイエール、レーミュ、アルレッティ。素晴らしき哉!ケーリー・グラント、ハンフリー・ボガード、ジェームズ・スチュアート、ゲーリー・クーパー、スペンサー・トレイシー、ローレン・バコール、ジーン・ティアニー、イングリット・バーグマン、ジョーン・ベネット......」


当時の映画雑誌(特に「レクラン・フランセ」)の反米主義は露骨であったため、映画狂の若者たちをイライラさせていたのだった。そして周囲への反抗心と、フランス映画には見出せなかったすばらしいエネルギーに対する心からの称賛と愛をこめて、とにかくハリウッド映画でさえすれば何でも好きになってやろうと彼らは決心するのだった。1948年ごろから、エリック・ロメールは「シネクラブ・デュ・カルチエ・ラタン」というシネクラブを主宰し、アメリカ映画なら何でも上映していた。さらに反米主義の「レクラン・フランセ」に対抗して「ラ・ガゼット・デュ・シネマ」誌を作ったが、失敗に終わる。そしてロメールは「カイエ・デュ・シネマ」に合流した。やがて左岸派のジャック・ドゥミやアニエス・ヴェルダもヌーヴェル・ヴァーグに加わっていく。


1953年、トリュフォーは「フランス映画のある種の傾向」という批評を「カイエ・デュ・シネマ」で発表する。当時売れっ子だった商業監督や彼らの作品の脚本家を叩きのめすものであったが、賛否両論の反響を巻き起こしトリュフォーの名を一躍高からしめたが、「くたばれ!トリュフォー」という抗議と怒りの手紙が「カイエ・デュ・シネマ」誌の編集部に殺到した。しかしこれこそがヌーヴェル・ヴァーグの到来を予告する明確なマニフェストにほかならなかったのである。


フランス映画の進歩は、本質的に脚本家および脚本そのものの革新、つまり文学の名作を映画化するための大胆な脚色、そしてふつう難解とみなされる主題にはきわめて敏感に反応し、寛大な観客がそれをうけいれてくれることへの絶対の信頼、にもとづくものではあるまいか。それゆえにここで問題になるのは脚本であり脚本家なのである。


名作文学にかこつけて–そしてもちろん「良質」の名のもとに–大衆に提供され、うけいれられているわがフランス映画の主流の実体は、相も変わらぬ暗いペシミズムのムードと社会の掟に立ち向かって挫折する純粋な人間たちの疎外と孤独を描き、大胆にみえて安易なマンネリズムが適量に調合された伝統的な映画なのである。


また、1982年に来日したときにもこのように語っている。


たとえば、メロドラマでは善玉と悪玉がはっきり区別される...純粋な心を持った主役のせりふは美しく感動的で、傍役の言うことは悪意に満ち、愚劣で滑稽というなんとも鼻持ちならない図式です。そうしなければ感動的にならないというような映画のつくりかたそのものが、いかにもいやらしくてやりきれないと...

「商業主義的要請」と時流にしたがって何でもこなすというだけの「凡庸のきわみに達した」フランス映画の「ソツ」のないたくみさが腹立たしく我慢がならなかった...




辛辣な批評でフランス映画界に君臨していた多くの名監督(と呼ばれていた人物)らを敵に回すことになったトリュフォー青年も、やがて自らの手で映画を撮ることになる。
明日はトリュフォーの長編デビュー作である『大人は判ってくれない』について書く。

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